フッサールと現象学
今、ある本を一冊、読んでいるのですが、、
また久々に「嫌われる勇気」以来の本に出会えました😄
以前のブログにも書きましたが、僕は気になる、または共感できる部分には、もう直接本に線を引いて、再度ゆっくりと振り返る様にしてるのですが、まだ半分ぐらいしか読んでませんが、かなり線を引いてます(笑)
本のタイトル等は、次回に改めて書きますが、
内容は、
今回はある言葉が引っ掛かったので、この感覚を忘れない内にと思ってとりあえず書いてます!
その言葉とは、、
フッサールの言葉で、
近代的な学は、
人間の具体的な経験の世界 (生活世界)を、
曖昧で、主観的、かつ相対的な領域として、
客観的な考察の対象にならないと見なした。
そして、公式や論理によって成立する、
理念的な領域だけを学的な対象とした。
どうでしょうか?
なんか考えさせられました、、
補足説明しますが、
フッサール曰く、
ガリレオ・ガリレイの測定術を起点に、私達が今、当たり前の様に受け入れている世界像が成立したと。
つまり、それ以前はそういう世界像はなかった、、、
この測定術で、時間の長さ、空間の広さ等を数字化し、それまで、異質なものとして存在していた、世界の時間、空間を均質化した。
よって、得るものもあったが、大変具合の悪い問題も生じたと。
ここから先は、まだ僕の頭では難解すぎて😅
まだ理解できてないので、いずれ整理して、書いていけたらと思いますが、
数値化、データ化する事で弊害が起こったとこの時代でフッサールは語ってます。
フッサールの生涯が1859年〜1938年からですので約80、90年前ぐらいです。
この大変具合の悪い問題を現在に至るまでまだ解決できないなぁと僕は感じたのです。
逆に当たり前と思われている事なので、問題意識がないとも言えますが、、
つまり、世界は人間は本質から背いていると、、、
ちょっと、今回はここら辺で😅
では また次回✋️