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Enjoy life! 面白く生きていく yoshiのブログ

面白いと感じた事やその取り組みなど自分が考えて実践した事などを書いていくブログです

幸せになる勇気 第四部

ここでは最終的に幸せを実感できる為には何を考えて行くのかを述べていますが、、、

 


ちょっと、一言ではまとめきれないですね。

 

それだけ、内容が多いです💦

 

まずはこの章でのキーワードを


それは「人生のタスク、交友、分業」

です。


ここで、アドラー心理学の基礎である、

 

「すべての悩みは対人関係の悩みである」

 

を思い出して、

 

この言葉の背後には、

 

「すべての喜びもまた、対人関係の喜びである」という幸福の定義が隠されているのです。

 

だからこそ我々は人生のタスク(仕事、交友、愛)を回避してはならない。

 

と述べています。


そして、ここでは、その中の交友について深く掘り下げています。

 

以下分かりやすく→

 

仕事と交友は、信用なのか? 信頼なのか?の違いだと考えて下さい。


つまり、仕事は信用の関係であり、交友は信頼の関係であると。

 

つまり、仕事の関係とは条件付きの関係で、仕事から離れてまでその関係を保とうとは思わないまさに仕事という利害によって結ばれた信用の関係であると。

 

一方、交友には、その人の持つ条件ではなく、その人自身を信じている。交友は明らかに信頼の関係であると。


なるほど。

 

つまり、交友の関係とは、信用よりさらに深い信頼関係である。

 

ここで、もう一つのキーワードである分業が出てきますが、

 

その前に、アドラーが注目した、仕事を成立させている対人関係のあり方について述べています。

 

自然界における人間は、鋭い牙も大空も飛ぶ翼も頑丈な甲羅も持たない。いわば身体的劣等生を抱えた存在です。

 

だからこそ我々は集団生活を選び外敵から身を守り生きてきた。

 

我々人間はただ群れを作ったのではない。人間はここで分業という画期的な働き方を手に入れた。これは類い稀なる生存戦略である。

 

つまり、分業とは、群れをつくるだけであれば動物たちがやってる事。

 

しかし人間はそこに高度な分業システムを組み込んだ上で群れをつくったと。

 

要するに、人間は1人で生きていけない。生存のレベルで生きていけない。そして他者と分業するためには、その人の事を信じなければならない。それが信用の関係であり、仕事の関係であると。

 

なるほど。

 

そこまで落とし込むのかーて感じですね。

 

この分業という言葉はほとんど意識した事がなかったです。

 

ただ目指すべき道は信用の関係ではなく、
交友であり、信頼です。

 

そこで、信頼するにはまず相手を尊敬する事だと述べています。

 

つまり、ありのままのその人を見ることであり、その人がその人にある事に価値を置く事である。何も特別である必要はない。

 

その先には、無条件の信頼があると。

 

無条件の信頼ですかー?

 

なんか無理がありそうな、、、

 

 

信じる事は何でも鵜呑みにする事ではありません。その人の思想信条について、あるいはその人の語る言葉について、疑いの目を向ける事。

 

いったん留保して、自分なりに考える事。その上で成すべきは、たとえその人が嘘を語っていたとしても、嘘をついてしまうその人ごと信じる事ですと。

 

うーん。相変わらず深いですね(笑)

 

今日、長男との宿題のやりとりで、信頼してみました(笑)

 

宿題で週末には作文があり、珍しく集中して30分ぐらいで終わらせてきました。


普段ならば、親がチェックを入れないといけないのですが、今回は敢えてチェックせず、

 

ただ一言、「もう一度誤字脱字がないか等、自分で見直してきてよ」と伝えると、

 

普段ならばすぐに反抗的な言葉や態度をとるのですがこれも珍しく「あっ わかった」と納得した感じで自分でチェックしてました。

 

折角なので、今回は最後までチェックせず、先生からの添削後に見てみようかと思います。

 

ただこれは課題の分離で、結局は親ではなく本人の課題なんで本来の姿かもしれないですね。

 

まあ、今後も積極的に取り入れてみようかと思います。

 

そしてこの積み重ねが交友の関係に結びついていくのでしょうね。

 

最後に

 

アドラーはどこまでも実践的な人物でした。

 

フロイトの様に戦争や殺人、また暴力の原因を考えるのではなく、いかにすれば戦争を食い止められるかを考えた人でもあった。 


世界平和の為に何かするのではなく、まずは目の前の人に信頼を寄せる。

 

目の前の人と仲間になる。

 

そうした日々の小さな信頼の積み重ねがいつか国家間の争いさえもなくしていくのです。

 

 

やはりそうですよね👍

 

 

では また次回✋️

サッカーU20 W杯 ウルグアイ戦

今回はいつものアドラー心理学ではなく、得意のサッカーネタで(笑)

 

サッカーダイジェスト web版で

 

ウルグアイはなぜゴール前で焦らないのか? 日本はなぜ焦るのか?」

 

というタイトルの記事がありました。

 

この記事を書いた方の結論は、

 

一瞬でも早くシュートを打たなくてはという気持ちからと、また日本人はフィジカルが弱く敵との接触をできるだけ減らさなけれはならないという考えから焦りを生んでるのではないかとしてます。

 

ここで僕の意見を述べたいと思います。この記事の内容が日本サッカー界の長年のテーマなので、未来に生かす為にも!

 

よってこの方の意見の反論とかは全くの論外で逆に色々と意見を出し合わないテーマだと思うし、アドラー流でいえば合意の形成を目指す感じですね。

 

では、まず、試合結果から。

 

0-2で日本が敗戦でした。それぞれのプレーは振り返りませんが、ウルグアイの2得点は極めて冷静に蹴り込んだゴールに感じました。

 

特に1点目は、一度シュート態勢に入りながらも真横からのスライディングか来てるのを把握し、動きを止めて、通り過ぎたのを確認してから左サイドにゴールを突き刺しました。

 

この様なシュートができるのもメンタルが落ち着いてるのと、この方が述べている通り、フィジカルが強く相手との接触を嫌がらない事が挙げられると思います。

 

まあ、ここからが本題ですが、

 

ではどうすれば日本は落ち着いてシュートを打てるのでしょうか?

 

まあアドラー流ですけど(笑)

 

そうですねー

 

1. 模範となる国を分析し参考にする。
2. 練習内容の改革
3. 現義務教育からの精神の脱却

 

の3項目を挙げます!

 

まず、


「模範となる国を分析し参考にする」


ですが、

 

個人的には、アルゼンチンやスペインの選手達が参考になるのではないかと思います。

 

日本人はスペインの特にバルセロナやレアルのファンが多いですが、僕はアルゼンチンの選手達の動きが今の日本には必要だと感じてます。

 

どういう事かといえば、体系が日本人とそう変わらないのに、世界で活躍してる選手が多いんです。 特にFWが!

 

メッシを筆頭に、イグアインアグエロ、ディマリア、ディバラ(最近の一押し選手)、イカルディなど 挙げればきりがありません。

 

日本に1人ぐらい分けて欲しいものです(笑)

 

上記の選手達のプレーを脳裏に焼き付け、特にシュートでは、強さ、角度、タイミング、そして蹴り方を参考にするべきでしょう!

 

次に「練習内容の改革」ですが、

 

日本は普段の練習からチームワークやパスワークに比重を置き過ぎると思います。


そこで、ゴールに直結する動きやシュート練習をもっと増やすべきではないかと。


将棋でいえば詰将棋ですよね。

 

最後はどんなに内容が良くても詰まないと勝てない、ゴールを決めないと勝てないわけですから。

 

特にシュートは蹴り方から振り返ってみるべきだと思います。メッシやネイマールの体格はそんなないのに強いシュート、狙ったコースに打てる。

 

何故打てるのか?


蹴り方、足の動き、体幹やより大きい筋肉を使って蹴ってるのか? など、改めて色々な角度から分析すべきだと思います。

 

それと、普段の練習からゴール左右の斜め上を狙うシュート敢えて練習すべきでしょう!


なぜなら、そこは強く打たなくてはゴールできないしキーパーがコースが分かってても一番とりずらい場所であるから。

 

もっとゴールからのシチュエーションを色々と考えるべきでしょうね!

 

次に、


「現義務教育からの精神の脱却」ですが


ちょっとタイトルが過激かもしれませんが
分かりやすくいうと、

 

これは「自立」ですね。

 

普段学校や部活では、大人の都合で上から押さえつけられてます。なので制度を変えるとなると時間がかかりますし、この辺りは本田圭佑氏に任せて、手っ取り早くまずは自分を変えます。

 

つまり外面、見た目だけにしといて、心は自立しておくべきだと。

 

つまり、アドラー流で、自己を確立する為に、自分の意志で考えて行動し、日々修正していきなさいと。トライアンドエラーですよね。

 

まあ嫌われる勇気とまではいいませんが、課題の分離という考えを持てればもっと自己を意識できますし、自立できると思います。

 

そうなればチームとして最強になるのでは?

 

誰が言ってたか忘れましたが、


「理想の監督像は選手に指示を出さない事。選手が自ら判断して動くチームが理想だと。」


まさにこれですよね。

 

以下は次のブログで書く内容なんですが、

 

サッカーなどは分業のスポーツで、個人個人の信用で成り立っています。そこには能力な差はあるが、1人1人が自立できれば社会で目指すべき形の交友=信頼に近づきよりチームが強くなるのではないかと思いますね。

 

ざっと述べてみましたが、

 

これからの社会は互いの意見をぶつけるのではなくて、出し合い、理解し合い、互いにコミュニケーションを図り、最終的に合意しゴールを目指す社会にしていきたいですね。

 

最後に

 

久保君のプレーはセンスがあり見てて楽しいですね!

 

では また次回✋️

幸せになる勇気 第三部 続き

前回の続きです。

 

人間は弱さゆえに協力し共同体を形成し生きてきたと。

 

そして、

 

文明はその弱さを補償するための産物であり、人類史とは劣等生を克服する歩みである。と述べています。

 

仮に人間が馬より足が速ければ馬車も、自動車も発明されなかったし、鳥のように空を飛ぶこどができれば、飛行機は発明されなかったと。

 

確かにそうですね。

 

人間は不完全であるゆえにそれを補償する文明を築いてきた。


逆に不完全な生き物だからこそ、1人では生きていけないこそ、日々をどう過ごしていくのかが問われてくる。

 

だからこそ日々、修正しまた新たに行動していく事が必要なんでしょう!!

 

なんか少しずつ人間として生まれてきた意味が見えてきた感じがしますね。

 

では、不完全な人間が築いているこの社会でより良く生きていくには?

 

まずは自立する事だと。

 

つまり、自らの意思で、自らを承認する。私の価値を自らが決定する!

 

そして、

 

人と違うことに価値を置くのではなく、私である事に価値を置くと。
それが本当の個性というものである

 

と述べています。

 


なるほどー

 

これで、第三部を一通り考えてみました。


まとめると、

 

褒められる事を目的とする人達が集まるとその共同体は競争原理が生まれてくる。


だが目指すべき共同体は競争原理ではなく協力原理だという事。

 

人間は元々、弱く、不完全な生き物である。よってそれを補償する為に皆と協力する共同体をつくるべきであり、また親や他人に依存するのではなくその中で自立し個性を発揮するという感じですかね。

 

それと、

 

その個性を受け入れる、理解できる人柄、社会も大切ですね。

 

 

では また次回✋️

幸せなる勇気 第三部

 

第三部では、主に賞罰教育の賞について触れています。

 

ほめられることを目的とする人々が集まると、その共同体には競争が生まれます。


子供達を競争原理に置くと、「他者はすべて敵なのだ」「人々は私を陥れようと機会を窺う油断ならない存在なのだ」というライフスタイルを身につけていくでしょう。

 

さらに、

 

競争があるところ、駆け引きが生まれ、不正が生まれます。誰かに勝つ必要はない。

 

なるほど。

 

スポーツ等、勝負事にはっきりと勝ち負けがありますが、それ以外の事、社会や組織などは何を持って「勝ち」と判断するのか明確ではないですよね。

 

ではどうすればいいのでしょうか?

 

それは、

 

競争原理ではない「協力原理」に基づいて運営されるべきと説いています。

 

どういう事でしょうか?

 

例えば、1人の男子生徒が問題行動を起こしたとしましょう。

 

多くの教育者は、「この生徒をどうすればいいのか?」と考えます。ほめるのか? 叱るのか?などなど。


実はこの発想自体が間違っているのです。


これは彼が悪だったから問題行動に走ったのではなく、学級全体に蔓延する競争原理に問題があったのだと。

 

つまり教育者に求められるのは、問題行動を起こす個人に目を向けるのではなく、問題行動が起きる共同体に目を向けることです。

 

そして個人を治療しようとするのではなく、共同体そのものを治療していくことです。

 

そうですかー。

 

ついこのケースだと個人を見てしまいますが、
そうではなく、全体の問題を把握せよと。


そして、競争原理から協力原理へという事でしょうか?

 

この協力原理ですが、まだ僕の中では曖昧なんですよねー。


現に、特に日本人は何も言わず協力する時はしてるでしょう?


困っている人がいれば周りは助けてくれるし、サッカーでも協力的だから、パスがよく回るし、守備も皆やってる。逆に協力は日本人の長所と思うんですよ。

 

なので、、

 

改めて理解を深める為にここで、

 

 

アドラー心理学の提唱する横の関係を貫くのは協力原理です。

 

誰とも競争することなく、勝ち負けも存在しない。他者との間に知識や経験、また能力の違いがあってもかまわない。

 

学業の成績、仕事の成果に関係なく、すべての人は対等であり他者と協力することにこそ共同体をつくる意味がある。

 

そして、

 

人間はその弱さゆえに共同体をつくり、協力関係のなかに生きています。

 

なるほど。

 

元々、人間は弱い存在なのでしょうか?

 

弱いという存在を認めるところから出発すればより協力関係を理解できるのでしょうか?

 

ちょっと今回はこの辺りで💦

 

では また次回✋️

アドラー心理学 人間の問題行動

前回の続きですが、、、

 

 

かなりあきましたねー💦

 

 

GWはカレンダー通り休みを頂けたので、ゆっくりとしてました(笑)

 

あまり遠出はせず、近場で、家族でサイクリングしたり、テニスの試合出たり、
ONE OK ROCKのアルバムを聴きまくってました。

 

機会があれば触れますが、久々にバンドでワンオクにはまりましたね。この歳になってまさかという感じです(笑)

 

 

では本題に入っていきます。

 

アドラー心理学では叱ってはいけないと説いています。

 

その理由として、まずは人間の問題行動に触れ、5項目の中の前回は1の称賛の要求まで考えました。

今回は2以降です。

 

 

2、注目喚起

 

1の称賛の要求が満たされない時、ほめられない場合、

人はほめられなくてもいいから、とにかく目立ってやろうと考えます。

 

この段階では、もうほめられようとは思っていません。



次からは対処が難しくなってきます。

 

3.権利争い

 

挑発を繰り返し、戦いを挑む、その戦いに勝利することによって自らの力を誇示しようとする。一言で言えば 反抗です。

 

次に

 

4、復讐

 

に突入します。

 

これはもう想像つきますよね。

 

1.2.3とこれは全て、もっと私を尊重してほしいという愛を乞う気持ちの表れです。

 

この愛の希求が叶わないと知った瞬間、人は一転して、憎しみを求めるようになるのです。

 

わかりやすいとこでは、ストーカー行為や引きこもりです。

 

次は最後、

 

5 、無能の証明です。

 

人生に絶望し、自分のことを心底嫌いになり、自分には何も解決できないと信じ込むようになり、これ以上の絶望を経験しないために、あらゆる課題から逃げ回るようになる。

 

おっと。

 

叱ると最終的には人間はここまでになってしまうんですか?

 

 

いわゆる問題行動の大半は、第3段階の権力争いにとどまっています。
そこから先に踏み込ませないためにも、教育者に課せられた役割は大きいのです。

 

なるほどね。

 

しかし、世の中の大人はここまでの認識がありますかね?

 

僕も含め大半が原因論で考えると思うので、その場しのぎの対処法で事を済ましてるのでないでしょうか?

 

アドラー心理学を全て鵜呑みにしようとは思ってはないですが、人間の心理学についてもっと早い段階で学べる環境があればいいなぁと感じますね。

 

どれが正解ではなくて、傾向と対策ですよね。

 

で、ここからが本題で、叱る事がなぜ有効性がないのかを述べています。

 

色々と具体例を挙げてますが、まとめると

 

怒りや暴力を伴うコミュニケーションには、尊敬が存在しない。それどころが軽蔑を招く。叱責が本質的な改善につながらない事は自明の理です。


ここから、アドラーは、怒りとは、人と人を引き離す感情であると語っています

 

また

 

暴力という未熟なコミュニケーションに頼ってはいけない。もっと別のコミュニケーションを模索しなければならない。

 

暴力の原因として挙げられる、相手がなにを言ったとか、どんな挑発的態度をとったとか、そんなことは関係ありません。

 

暴力の目的はひとつですし、考えるべきはこれからどうするかなのです。

 

なるほど。

 

暴力は未熟なコミュニケーションなんですね。考えた事もありませんでした。

 

では、コミュニケーションの目的、目標は何なんなのか?

 

最終的目標は、合意の形成です。
伝えるだけでは意味がなく、伝えた内容が理解され、一定の合意をとりつけた時にはじめてコミュニケーションは意味を持つ。

 

と書いてます。

 

合意までには、相当な時間を労し労力も必要でしょう。

 

でも暴力という未熟なコミュニケーションで済ますのではなく、未熟な状態から成長していく為にも互いに合意できるコミュニケーションを図っていかないといけないという事でしょうね。


しかし、ムダが省かれ、電話よりもメールやSNSでの会話が中心となってるこのご時世に、合意までに労力を伴うコミュニケーションを図れと、、

 

なんか面倒くさいってなりますよね。

 

まあ人にもよるんでしょうけど、、

 

欧米人は多民族国家だから、必然とコミュニケーション力を身に付けないと社会で上手く生きる事ができない。


たが日本人は今でこそ、国際色豊かになってるきてますがほぼ単一民族といってもよい。


そんな中、暗黙の了解みたいな風潮がありますよね。

 

「わざわざ伝えなくてもわかるよな? 」

 

感じです。

 

なので、逆に意見を伝え合う場があまりないですよね。 

 

でも、一番身近な家族や友達なら取り組めると思います。

 

現にGW中、子供達とコミュニケーションを図りました(笑)

 

内容は単純ですが友達と遊ぶか? 水族館に行くか? 実家に帰るかなど。お互い合意に至るまでそれなりに話し合いました。

 

親の権限で、決断すれば早いけれど今年はせっかくなんで子供達の意見も聞いた上でお互い合意できるコミュニケーションを図りたいなぁと思ったので。

 

まあ、色々とエラーは出ましたが、最終的には互いに気持ち良く行動できたと思います。

 

この一つ一つがちょっと面倒くさいですけど未熟な段階からの一歩脱却に繋がるんでしょうね!

 

これで「幸せになる勇気」の二部を終えたので次回は3部からです。

 

では また次回✋️

 

 

幸せになる勇気 第2部

ここでは、主に賞罰教育について書いています。

 

嫌われる勇気にもありましたが、個人的には賞罰の賞がまだ腑に落ちないですね。

 

またここ最近も、長男をなるべく控えめに褒めたんですが喜んでましたし、、、

 

褒めてはいけないと💦


またさらに理解を深めたいと思います😅

 

では、まずは賞罰の罰について。

 

 

現代のアドラー心理学では、人間の問題行動について、その背後に働く心理を5つの段階に分けて考えます。


1、称賛の要求

2、注目喚起

3、権力争い

4、復習

5、無能の証明

 

となってます。

 

では1つずつ考えていきます。

 

1、称賛の要求

 

親や教師に向けて「いい子」を演じる。組織で働く人間であれば上司や先輩に向けてやる気や従順さをアピールする。

 

これって、特に問題はないですよね?


逆に優等生でいいじゃないですかー

 

でも、アドラー心理学では、

 

彼らはいいことをしているのではありません。ただ褒められることをしているだけなのです。

 

彼らは、褒めてくれる人がいなければ適切な行動をしないのだし、罰を与える人がいなければ不適切な行動もとるというライフスタイルを身につけていくのです。

 

なるほど。

 

つまり、自立できない訳ですね。


まさに指示待ち族の予備軍になってしまうと。

 

では、どういう点に着目していけばいいのでしょうか?

 

特別でなくとも価値があると教えていくのです。尊敬を示す事によって。


具体的には、何かいいことをしたときに注目するのではなく、もっと日頃の些細な言動に目を向け、その人の関心事に注目し、共感する。

 

おっと、ここで前回のブログの内容に戻るわけですね。


ありのままを認めて、上記の内容に目を向けると。

 

これは、つまり、過程を見よという事でしょうか?

 

テストで30点取り、点数で判断するのではなく、どこで間違い、何が正解してるのか?日頃の勉強はどうだったかなど内容を見よと。

 

将棋で例えれば感想戦でしょうね。


勝敗の原因を探ったり、ある局面を振り返り、仮にこう指しておけばどう展開したのか? 詰みがなかったのか? などなど、

 

共に最後は共感していきます。

 

将棋って、盤は小さいですが、人間のあらゆる場面があそこに詰まってる感じがしますね。

 

アドラーにも通じるものがあるなー

 

今回はこの辺りで^_^

 

では また次回✋️

幸せになる勇気 第1部 その2

前回は、半信半疑で終わってましたが💦

 

まだ確信には至っていません。

 

「尊敬とは勇気づけの原点で、ありのままのその人を認める。」

 

我が子の短所をありのまま認める、、、

 

もしかしたら短所と勝手に判断してはいけないのでしょうか?

 

わかりませんねー。

 

ちょっと例えが悪かったかもしれません。


もっと短所ではなく関心事に目を向けるべきかもしれません。

 

本にはこう書いてあります。

 

こちらからなにかを推奨するのではありません。ただ子供達の関心事に関心を寄せるのです。

 

あなたから見て、どんなに低欲な遊びであろうと、まずはそれがどんなものかを理解しようとする。

 

場合によっては共に遊ぶ。

 

遊んであげるのではなく自分自身がそれを楽しむ。

 

その時はじめて、子供達は自分達が認められていること、子供扱いされていない事、1人の人間として尊敬されている事を実感するでしょう。

 

これはあらゆる対人関係で求められる、尊敬の体的な第一歩です

 

なるほどー。

 

この間、長男が遊んでるカードゲームをしました。たしかデュエルマスターズだったかな、これがまた、ルールが複雑すぎて、サッパリ分かりませんでした😅

 

多少粘りましたが、理解できなく、次男に譲りました(笑)

 

すると今は次男がある程度ルールを把握できたのか、一緒に遊んでます。

 

子供の吸収力って凄いし、呑み込みが早いですね。長男も友達から教わって一日で覚えたと言ってました。

 

ここで僕がもう少しそのカードゲームを理解しようとすれば、長男をさらに認める事に繋がったという事ですかねー。

 

 

ただ僕の中では、だいぶ長男に至っては子供とはあまり思って接してないです。

 

もう9歳だし、色々と自分で考えて、動いて、試して、修正して、また動いてほしいと思っています。

 

その中で、迷いや不安が出てくるでしょう。
そんな時に親は子供と対等に接し、ありのままを認め、勇気づける事が必要なんでしょうね。

 

子だけではなく、部下や友達にも同様に!

 

では また次回
次回は第2部に取り組みます✋️